国民的女優として多くの人々に愛された故・坂口良子。その娘であり、かつてタレントとして活躍した坂口杏里。
坂口良子は、数々の名作ドラマや映画に出演し、その温かい人柄で幅広い世代から支持を得ました。一方、娘の杏里も、二世タレントとして注目を集め、バラエティ番組などで独自のキャラクターを発揮しました。
本記事では、杏里と母・良子の間に育まれた深く強い親子の絆を中心に、実父や継父、そして兄といった家族との関係性、それぞれの人生模様を丁寧に描き出します。
単なる芸能ニュースとしてではなく、母娘の愛情、実父との葛藤、継父からの温かい支え、そして兄弟との繋がりを通して、家族の支え合いやそれぞれの人生における選択について深く掘り下げていきます。 実の親子、再婚によって築かれた家族、そしてそれぞれの繋がりが複雑に絡み合いながら、坂口家の物語は紡がれてきました。
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深く結ばれた母娘の絆:良子から杏里への愛
幼少期から芸能界デビュー:母・良子の影響
1991年、杏里は東京都で生まれました。母は女優の坂口良子です。 幼い頃から母親の仕事現場を訪れることもあり、芸能界という華やかな世界を身近に感じて育ちました。二世タレントとして早くから注目を集め、バラエティ番組や女優業にも挑戦しました。
しかし、当初は「2世タレントとして親と同じ道を歩むのは絶対に嫌だった」と語り、あえて母親とは違う分野で活動したいと考えていた時期もあったようです。
自身の言葉として、「2世タレントって親と同じ道を歩む人も多いけれど、私は絶対に嫌でした。あえて違う畑で戦いたかった」と当時の心境を明かしています。 この背景には、母親の大きな存在に対する意識や、自身の個性で勝負したいという強い思いがあったと考えられます。
母の突然の死と坂口杏里の悲しみ、そして新たな決意
2013年3月、坂口良子は57歳という若さでこの世を去りました。 突然の訃報は、杏里にとって計り知れない悲しみをもたらしたでしょう。
しかし、母親の死後、杏里の中で女優業への思いが明確になったと言います。「ママが亡くなってから女優をやりたいという気持ちが明確になった。悪い言い方かもしれないけれど、いい契機だったのかもしれない。ありがとうと言いたい」と、心境の変化を語っています。 これは、母親の存在を失ったことで、改めて母親の偉大さや、自身が本当にやりたいことを見つめ直すきっかけになったのかもしれません。
母の死後、初めて自身のブログを更新した際には、「ゆっくり前に進みます!」と力強く決意を表明しました。 ブログには、「お母さんのことは、今でも信じられない気持ちでいっぱいです。
毎日、お母さんのことを思い出しては涙が止まりません」と率直な悲しみが綴られていましたが、同時に「皆様からの温かいコメントを読んでいると、私もゆっくりと前に進んでいかなければならないと思っています」と、前向きな言葉も記されていました。 この言葉からは、母親を失った悲しみを乗り越え、自身の人生をしっかりと歩んでいこうとする強い意志が感じられます。
共に過ごした温かいエピソードの数々
杏里は、母親との大切な思い出をいくつか語っています。初主演映画の台本やパンフレットを母親の仏壇に飾っているそうで、「歩き始めた自分を見守ってほしい。そんな思いからか『仏壇には今回の映画の台本やパンフレットを飾っている』そうだ」と、母親への深い愛情を示しています。 また、母親の命日には墓参りに行き、過去6年間の出来事を振り返りながら、「一生懸命頑張るから見ててください」と墓前で誓っています。 これは、母親が生きていたら喜んでくれるような姿を見せたいという、彼女の強い思いの表れでしょう。さらに、母親が自分のために慣れないバラエティー番組に積極的に出演してくれたことについて、「すごいうれしくて」と感謝の気持ちを語っており、親子の温かい関係性が伝わってきます。
坂口良子が娘・杏里に遺した想い
坂口良子は、自身の死期が迫る中で、夫である尾崎健夫と娘の杏里のことを深く案じていました。「自分が死んでも、家族のままでいてほしい」と願い、生前、尾崎に何度も「子供のことをお願いします」と言い続けていたそうです。 これは、母親として娘の将来を誰よりも心配し、最愛の夫に娘の成長を見守ってほしいという強い願いがあったからでしょう。また、良子は自身の体調が優れない中でも、娘の仕事の心配をし、娘が出演していた化粧品会社のCM契約が継続されるように尽力していました。 まさに、娘を思う親心そのものです。
父との複雑な関係:実父と継父
実父の存在と幼少期の記憶
杏里の実父は、元不動産会社社長の田山恒彦です。 一時は“不動産王”として知られた人物だったようです。 しかし、杏里が3歳の時に両親は離婚しています。 幼い杏里にとって、両親の離婚は大きな出来事だったと考えられます。杏里は実父について「いません」「ずっとトラウマでした」と公言しています。 この強い言葉からは、実父との間に深い心の傷があったことがうかがえます。
その背景には、バブル崩壊後に実父の会社が倒産し、母親である良子に40億円もの借金を背負わせてしまったという過去があるようです。 この経済的な苦境が、杏里が父親に対して強いネガティブな感情を抱く大きな理由と考えられます。小学校2年生の時に両親が離婚したため、杏里は実父についてあまり覚えていないとも語っています。 幼少期の記憶が少ないことは、父との関係が希薄であったことを示唆しています。
継父・尾崎健夫との出会いと影響
母・良子は、1998年にプロゴルファーの尾崎健夫と知り合い、長年の事実婚を経て2012年に正式に結婚しました。 尾崎健夫は、杏里にとって母親の再婚相手であり、新たな家族の一員となりました。杏里は当初、尾崎のことを「おじさん」と呼んでおり、関係を築くには時間が必要だったようです。 しかし、良子の死後、尾崎は杏里を食事に誘うなどして積極的にコミュニケーションを図り、二人の関係は修復に向かいました。
2012年の結婚披露宴では、杏里が初めて尾崎を「お父さん」と呼びかけ、会場を感動に包みました。 この呼びかけは、杏里が尾崎を心から父親として受け入れた瞬間だったと言えるでしょう。
尾崎健夫の行動を通して、杏里は初めて父親とはどういうものかを理解し、深く感謝していると語っています。「旦那のお父さんが、お父さんとはこういうのなんだと言葉じゃなく行動で分からせてくれて、あーこういうのがお父さんっていうんだ。って31歳にして初めて感じさせていただきました!」と、義父への感謝の気持ちを綴っています。